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| ■ アフリカと日本について (About Africa and Japan) | ||||||
| ■ はじめに | ||||||
| 協力隊員は日本という国で培われた思考や行動規範を携えて、それぞれの途上国に赴任する。そして、2年間という長い時間、どっぷりと現地社会につかるのが特徴である。協力隊になるための必要で大切な条件として、「異文化に適応できる能力」というものがあるが、途上国において周囲の環境に慣れるためには、あれこれ(深く)考えず思考や身体を慣らすのが一番である。 続き......................................... |
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| ■ 目 次 | ||||||
| ■ アフリカと日本について 自分なりに考えてみた............ | ||||||
| ・ アフリカの抱える問題 | ・ 日本が発展した理由 | |||||
| ・ その問題はどうなるの? | ・ 日本人とアフリカ人の外見 | |||||
| ・ ジンバブエの学校の仕事で感じたこと | ・ 日本人が集まりゃ、小日本が発生 | |||||
| ・ そもそも発展とは何か? | ・ 日本人の性格(国民性) | |||||
| ・ アフリカが発展しない理由 | ・ 日本は海外移住者が増えるの? | |||||
| ・ 搾取、搾取、搾取 | ・ アパルトヘイトと援助 | |||||
| ■ はじめに |
2008.2.29 | |||||
協力隊員は日本という国で培われた思考や行動規範を携えて、それぞれの途上国に赴任する。そして、2年間という長い時間、どっぷりと現地社会につかるのが特徴である。協力隊になるための必要で大切な条件として、「異文化に適応できる能力」というものがあるが、途上国において周囲の環境に慣れるためには、あれこれ(深く)考えず思考や身体を慣らすのが一番であると思う。私はどちらかというとあれこれ(深く)考えないほうだから、カルチャーショックをあまり受けなかったようだ。しかし、視点を変えてみるともったいない事でもある。なぜならば、「なぜ?」という疑問に蓋をしてきたからである。 カルシャーショックとは、異文化という自分の規範外のものに触れた時、思考の整理(コントロール)や予測といったことができにくくなるために起こるストレス反応である。同じ日本人でも、カルチャーショックを受ける度合いや症状の大小はかなり違う。私がここで注目したいのは、「なぜ」自分がそれらの異文化に対してストレスを感じているかの要因である。つまり、ストレスを引起こしている、自分の思考とのギャップである。 全般的に、途上国において協力隊員は常に葛藤しているように思う。例えば、商社の駐在員のように「営利」が第一目的で途上国に赴任している人達とは違い、協力隊員は「その国の発展のために」という目的がかなり上位に位置付けられて現地に赴任している。ほとんどの協力隊員の人が途上国が発展するには、(おおげさだが)日本のような社会の規範、少なくとも今自分が備えている規範を途上国の人が採用してくれたら、発展するのではないかと思っている、もしくは思い込んでいるようだ。しかし、現実はそううまくいかない。「なぜだろう?」。自分が今いる国(途上国)で、思うように現状が進行しない事に対して葛藤せずにはいられない。 協力隊員が日本に帰国した際には、逆カルチャーショックを味わうという。特に「日本社会の目まぐるしさ」を感じ、物事の「無駄のない効率性」に自分がついていけるのか不安を感じるという。しかし、まもなく大部分の人は「日本モード」のスイッチがONとなり、すんなり日本社会に(再)適応するそうだ。きっとその時点で、自分が赴任していた途上国で考えていたであろう「途上国について」「発展について」「日本について」などなど、まっさらに消え去ってしまうのではないか。日本で生活するには、別段これらを考えなくても良いことだからである。だから、途上国に赴任しているうちに思いたって、考えたことを書いておいたら面白いかもしれない。 アフリカ(ここではサハラ以南のアフリカ地域)や途上国というように、場所の範囲が広く表現されているところは、私が以前滞在したことがある国々や主に現在赴任しているジンバブエでの経験、関連する本などを元に、なるべく自分で考えてここでは書いている。 |
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| ■ 途上国と日本について |
2008.2.29 | |||||
| ■ アフリカの抱える問題 | ||||||
ジンバブエに赴任する前、私もアフリカに対して非常に限られた情報とイメージしか持っていなかった。実際に来てみると、現実がそれらの空想をどんどん塗り替えていった。また赴任当初、当たり前の話だがこの土地にも「人間の日常」があるなと思った。ある人が「人間の日常」について、世界中どこに行っても人は、「飯食って、クソして、寝ることの繰返し」だと言っていたが、未知の大陸に対する「特別なイメージ」よりも人間の日常に焦点を当てた素敵なコメントだと思った。 現在、アフリカは様々な問題を抱えている。日本のニートも国家的な問題のようだが、アフリカには人間の命を脅かす(または縮める)問題がたくさん存在する。いつかのあの人が言っていた、「人間の日常」さえも脅かすのだ。 まずは、平均寿命の低さ。ジンバブエを含めほとんどの南部アフリカの国々では、平均寿命が40歳に達していない。現在、日本の平均寿命は80歳を超えているから、40歳以下という数字は想像しがたい。しかし、ジンバブエで周りを見渡してみると、70歳を超えたお年寄り(女性が多い気がする)を多く見かける。現ムガベ大統領も83歳であるし。だから、乳児のうちに亡くなったり、感染症(エイズなど)や風土病(マラリアなど)などを含めた病気で亡くなることを除けば、栄養状態しだいで人間の寿命は70、80歳まで生きられるものだなと感じた。 次に貧困。よく貧困の指標で使われる、「一日1USドル以下で生活をしている人々の割合」があるが、アフリカでは人口全体の約40%がこれに当たる。ジンバブエの東部地域(マニカランド)には、非常に温暖多湿で農作物に恵まれている豊かな土地がある。この地域の田舎では、昔ながらの自給自足が行われていて、人々の表情は明るく、(一日1USドル以下の生活だが)「貧困」といった言葉は合わない。しかし、西部に行くと一転、降雨量が少なくなり、干ばつも度々起こり、農作物があまり育たない。日本全土で農作物がすくすく育つ日本の感覚だと、アフリカの人々は最低限の食糧確保として、自給自足をしたら良いのではと思うが、農作物を天水だけで安定的に育てるのに適した土地というのが少ないという現実がある。 次に経済の停滞。これだけ物が巷に溢れている世の中なのだから、経済がちょっとでも前進しない国なんて存在するの?と言いたいところだが、現にアフリカの一部の国(資源が豊富、産業育成に成功した、南アなど)を除き、ほとんどの国々の経済が停滞もしくは後退している。以前は「アフリカの穀倉庫」といわれていたジンバブエも、現在は経済状態が疲弊しつくしている。ちょっとずつの前進さえもできない経済状況には、やはり断定的な要因が存在するようだ。 目に見えやすいものとして、国の政治的不安定さがある。政権が交替されるような時には、常に暴動、さらに内戦に発展するような危険をほとんどの国がはらんでいる。暴力で事態の解決を図ろうとする考え方は、一体誰の手本を参考にしているのだろうか?当事者に聞けたら、面白いかも。また、海外からたくさんの援助をもらうのはいいが、今度はその援助にまるっきり依存してしまい、彼らの自助努力をそいでしまっていること(援助慣れ)や多額の累積債務があること、高い人口増加率、余計なお世話と言われるかも知れないが、砂漠化や森林減少などの環境破壊問題がある。その他、たくさんの問題を抱えている。 |
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| ■ その問題はどうなるの? | ||||||
一般的に問題にはそれを引起こす要因が必ずあって、その要因を分析して解決策を練り、問題の解決に向けて策を実行に移していく。このプロセスはすべての国で実行されているのだが・・・・・・ 率直にいうと、アフリカでは問題の打開策とはいわずも、改善策を実行に移してもゴールの光が見えてこないようなのだ。つまり、事態が一向に好転しない。なぜだろう?なぜだろう?問題を引起こしている要因の分析が甘いんだろうなーと、そこに行き着く。 あっそうだ、アフリカは日本から遠くて遠い大陸(国々)だから見ないふりをしておこう。アジアの国々とは顔も多少似ていたり、文化的繋がりを感じるので少しは親近感があるが、アフリカは正直、文化的繋がりを感じない。もちろん、人間の日常は世界共通なのだが。 日本人の感覚?だと、援助をしたらしただけ、(ちょっとずつでもいいから)発展するはず!と思って疑わない人は、実際にここに来て自分の目で確かめてみたらいいと思う。 アフリカについて書いてある本の中に、「アフロペシミズム」という言葉があって、意味を調べたら、「アフリカ悲観論」ということだった。その時、実は私も規模はだいぶ小さいが、自分の協力隊活動に意味があるのかと悲観的になっていた時期であった。なんせ、ジンバブエは衰退の一途を現在たどっているし。ケニアなんかは、アフリカのなかでも協力隊をかなり送っていた国なのだけれど、最近起こった、大統領選挙後の暴動で国が下降している。ケニアにいた協力隊員達は、それでも自分達が活動し、何らかの貢献をしたことに対して楽観的に見ていられるのだろうか?悲観論について、当のアフリカの人達は自分達を悲観されて、どう思っているのだろうか? ジンバブエで私は「問題」という言葉をあまり聞いたことがない。それで、みんななんて言うかというと、「挑戦」と言う。テレビで有力者の演説でも、「挑戦・挑戦」の繰返しで、論理的に問題の原因を説明している姿はほとんど見たことがない。ガッカリだよ。 |
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| ■ ジンバブエの学校の仕事で感じたこと | ||||||
私は首都のハラレポリテクニックという、総合専門学校(全生徒数約6,000人)で土木工学科の一講師として仕事をしている。仕事を始めてから、もう一年以上が経った。学期初めには、講師ミーティングをして担当科目を決め、時間割表を作成する。そして、その時間割表に沿って学生相手に講義を行うのが私の主な仕事内容だ。私の学校でも講師の海外流出がひどく、私は少なくとも(一講師として)その穴埋めになれば良いと思って仕事をしていた。 同僚講師や学生達と多くの時間を共に過ごしていくうちに、いくつか(問題点として)感じたことがある。※ここでは、私の言いたいことがうまく伝わらないかもしれないと思っているので、表現を誇張気味に書いている。 まず1つ目は、時間に対する規律がない。学生のみならず、講師さえも決められた時間に平気で遅刻してくる。時間を気にするような、生活スタイルがない(なかった)ことと、効率という考え方がほとんどないからのようだ。また、時間という概念だが、彼らは時間を数字的に理解していないように思う。例えば、日本人に1日はどれだけの量があるのか?といったら、「1日は24時間ある」と多くの人が答えるだろう。「1日は1,440分ある」とか「1日は朝+昼+夜だ」とかはあまり言わない。きっと、日本人は1日の時間について意識した時に、1日を24分割した「1時間」という単位(区切り)が出てくる。江戸時代の人々は十二支の干支(えと)が時刻を表していた。つまり、1日が12分割された「2時間」が単位だった(と、しておこう)。ジンバブエ人を良く見ていると、どうやら朝(夜明けから昼食)、昼(昼食から日没)、夜(日没から夜明け)の3分割のようだ。ショナ語には朝・昼・夜の言葉はあるが、時刻を表す言葉はない。そこには単位となる数字が存在しない。繰返すが、時間の概念は、日本人とジンバブエ人の間にかなりのギャップがある。 次に、「効率」について。率直にここには、「効率」という言葉が存在するの?と何度も思ったことがある。現地語(ショナ語)では「効率」という単語が存在していない。「急ぐ」という言葉はあるが。効率とは工夫をした結果でもある。日本では、自分が楽をしたいから効率を考える。企業とかはお金に絡むから、効率を考える。効率的になると、楽ができたり、時間が浮いたり、お金が節約できたりもする。私の学校でも、ジンバブエお決まりの長い列をよく見かける。学校の事務管理棟の受付窓口では、学生の書類受理の時に半日も待つような長い列が作られる。学食でも毎日、長い行列で、昼一番の講義の時間が始まっても、食事を待つ列は一向になくならない。私からすれば、その期間・時間だけそれに対応する人を増やせばいいのでは?といつも列を見るたびに思う。日本の効率性は今や恐ろしいが、効率がない世界も恐ろしい。 あとは、人の管理(経営)について。学校の組織は学長→副学長→学部長→学科長→講師達だ。学長、副学長ぐらいは、学生に対するある程度の責任感があり、それに基づいた考え方がある。しかし、その下にいくと、突如カオス(混沌)になる。私の学科の講師は、私用で講義を放棄することが頻繁にあるが、学部長・学科長はその事実を知らない。または、知っていても見ぬふりをする。自分の部下である講師達が時間割通りに講義を行っているかどうかを、まったくといっていいほど気に関しない。私は着任当初、担当科目が決まりシラバスと国家試験の過去問をもらいに学科長のところに行ったら、そんなものファイルに集めていないと言われて、卒倒したことがある。学部長も同じ対応だった。せめて、全教科のシラバスくらいは、一つのファイルにまとめておいて欲しかったのだが。結局、同僚講師を一人一人回り、それらを手に入れた。私の学校の学長は、非常に優れた人物だと思う。しかし、中間の管理職的立場の人になると急に無責任になる。 最後に、学校の備品を大切にしないということ。実際、備品のほとんどが、ボロボロである。物の扱い方が非常に荒っぽいのと、「自分の物ではないので」という考え方の結果であると思う。学校のルールブックを以前読んだが、備品の扱い方については非常に事細かに言及されていた。だから、学校備品の粗末な扱い方を危惧している人がいるのだと、少し安心したが、現状はひどいままだ。日本は(以前は特に)物を大切にするように、小さい頃から教育されてきた。そのことは日本の非常に良い文化である。ジンバブエはその逆の文化だと最初に理解しておけば、こんなにイライラしなくてすむ。 |
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| ■ そもそも発展とは何か? | ||||||
日本も昔は途上国であった。その後、中進国になり先進国に仲間入りさせてもらった。発展してこうなったのだし、現在も発展している。その過程には、様々な問題に面してきた(現在でも)。発展していくと、人が変わっていく。また、発展していくと、自然に害のあるものがたくさん排出される。この二つを、今や先進国の日本はよく承知しているはずである。 日本では、生活が文明の利器たちで便利になったり、豊かになったりするのが発展と思っているのだろうか?しかし、最近日本に生まれた人は、すでに文明の利器にひたっているので、生活のなにが便利になっているのか実感できないと思う。昔から人の想像力は理想を求め、そこに近づこうと努力をしてきたが、最近はその想像力自体に行き詰まり感があって、理想が乏しくなってきている。しかし一方で、人間の脳は無自覚なうちにどんどん自分の体を現代風に進化させているようだ。 現代では、人が身体を動かす機会が以前に比べかなり少なくなった。炊事、洗濯、移動にしろ、会話にしろ、情報だってパソコンの前に座っているだけで得られる。これらは楽にできたらいいなーという人間の想像力が現実化したもので、想像しただけで願いがかなってしまう魔法みたいなものだっただろう。 最近の子供とか若い人はあごが細くなっているのに気が付く。これは固いものを食べなくなったのが理由らしいが、急激な人間の体の進化がごく最近起こったともいえる。あと数十年かしたら、あごが縄文土器みたいに尖がるようだ。身長も昔に比べて、だいぶ伸びてきている。これらの変化は目に見える想像の範囲内ということで、比較的安心できる。しかし、人間の目に見えない思考の変化といったものは、想像できない。体の変化は脳が指令を出しているのだが、現代の環境に対して脳は一体何を考えているのだろうか。発病したら致死率ほぼ100%の狂犬病は人間も感染する。狂犬病に感染すると、いろいろな症状がでるが、恐水発作といって水を極端に恐れる症状もでるそうだ。なぜ、脳が水を恐れるようにと指令を出すのか疑問で仕方がない。しかし、狂犬病は極稀な感染症だから、で話は済むのだが、高度に発展した未来には、脳が原因不明の暴走をすることが起こるかもしれない。 また現在、生活の利便性を上げてくれた魔法が、通用しないものも現実には存在する。それは、現代のストレスを受けるもの(仕事や学校など)に対して、フラストレーション(我慢や不快な緊張、不安)をいわば強制的に持たなければならないことだ。高学歴を誰もが欲しがり、機械のように働くことを強要させられる仕事環境で学校や仕事に対してストレスを感じない人がいるのであろうか。高度なストレスを魔法で解決してくれたら本当にいいのだが、この二つは相反するものなので、現実には解決が不可能のようだ。脳はこの二つの混在をどう対処しようとしているのだろうか。 最近、ふと思う。このままジンバブエが「発展」したらどうなるか?まず、この国の人はどこにでもゴミを捨てるのでゴミだらけの国になる。河川には工業廃水や生活廃水を何らかの処理なし(または不十分な処理)で垂れ流していて、水質が悪くなる一方だ。乾季と雨季がハッキリしていて、水の重要性が特にあるこの国において、水質汚濁は将来の死活問題だ。首都近郊のチベロ湖で窒息死した魚をたくさん見たことがあるが、将来の環境汚染された国の姿はかなり明確だ。JICA冊子の援助の項目であるように、「公害問題を克服した日本の経験」??を生かして、途上国をクリーンにできたらいいと思う。 自分が安易に「発展」と言ってしまったばかりに、想像できることできないことを含め、将来なにか悪いことが起こるのであれば、「発展」してもらっては困る!と思ってもみた。環境問題だけをとってみたら、特に途上国は発展しないで!と言いたくもなる。協力隊の面接時に、「途上国発展のために・・・」なんて、言い切った自分がすごい。人はわがままな生き物だ。 |
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| ■ アフリカが発展しない理由 | ||||||
50ヶ国以上あるアフリカの国々のうち、いわゆる発展している国はそのなかで2割にも満たないそうだ。多くの国がヨーロッパ諸国に植民地化されていた時代には、発展していたので、それ以後、ある時点から現在のジンバブエのように後退している国がたくさんある。 まずは、アフリカの厳しい自然条件。アフリカにはもちろん、農作物が豊富に育つところもあるが、乾燥した大地が多いので、雨水だけに頼った農業が難しい。アフリカの9割以上の国々が食料の自給すらできていない。さらに、熱帯地域特有の感染症がある。特にマラリアは脅威の疾病のようだ。 次に、国境線の引き方がある。引き方といっても、誰かが勝手に引いたようだ。歴史的経緯を勉強すれば、分かる。朝鮮半島も元々は、同じ言語・文化を持った民族だったのに北緯38度で国境が勝手に引かれている。もし日本も電気の50ヘルツ、60ヘルツで国境が引かれていたら、歴史が変わっていただろうな。アフリカでいうと、この勝手に引かれた国境線がかなり曲者の役を演じているようだ。 次に、貧富の差と頭脳流出(Brain Drain)。頭脳流出とは、比較的富める者で高い教育を受けたものが、高い給料と良い生活水準を求め、じゃんじゃん国を離れて、先進諸国へ行ってしまうことだ。発展の大切な要素として、技術や経営などの能力を持った人間の貢献が挙げられるが、国内にそれらが存在しなければ意味がない。貧富の差は、治安の悪化や富める者から無知である者への搾取(例えば、豊富な地下資源のある国で、その富が公平に人々に分配されないことなど)などがあり、貧富の差は縮まるどころか、ますます広がっている。また、一握りの富裕層と大多数の貧困層との間にある空白は、知識や技術などの伝達を難しくさせている。 次に、白人がアフリカに入植してくる前にその土地に存在していた文化的な下地というか、発展をしようとしたときのポテンシャル(想像力など)の有無がある。日本は一時鎖国をしていたものの、開国した時には、外国文化(半分はやむなく?)大歓迎だったと思う。アフリカの人は、その当時、勝手に自分達の土地に入り込んできた人達の文化(その中には、武力が統治に使われることも)を歓迎していたのだろうか?もし、歓迎していなかったら、彼らの意見を尊重しなかった入植者達が横柄だ。ジンバブエのムガベ大統領は「国がガタガタになってきたり、HIV/AIDSが蔓延しているのも白人達のせいだ。ジンバブエにある、白人達が所有している肥沃な農地を我々に返せ!」と真面目な顔をして言っている。 最後に、無理に発展することを期待しなくても良いのではないか?人が生きるか死ぬかの莫大な数におよぶ場面に援助国が登場し、人道援助だけをしたら良いのでは?と少し思ってもみたが、効率がかなり悪い。こうなってくると、アフリカと援助している国が持っている、「アフリカが発展することに対する悲観的な考え方」がそもそもの原因ってことに、無理やりしたくなる。 |
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| ■ 搾取、搾取、搾取 | ||||||
「搾取」なんていう言葉の意味は、協力隊になるまで知らなかった。協力隊は危険度の高い途上国にこれっぽっちのお金を渡され、放り出され、若い大切な時間と労力を2年間分も搾り取られ、ついでだから、そこで日本の宣伝もしてこいと・・・・・・これは搾取になるのだろうか?上の文章はどうでもいい冗談だったが、真に受ける人がいたら怖い。 「搾取」とは、片一方が片一方から「都合よく」「何か」を漢字の通り「搾り取る」ことのようだ。ここでのミソは「都合よく」と「何か=富を生み出す特別な商品」いうことではないか。都合よくだから、もちろん両者同意の上でってことだ。しかし、同意の上とはいえ、片一方が搾り取られたら、取られたほうはたまったもんじゃない。 ここで、「富を生み出す商品」とは何か?いろいろあるが、一番分かりやすいものは地下に眠っている資源だ。例えば石油だが、石油は精製や加工をするとガソリンやプラスティックなどの様々な商品に変化する。原油そのものは、世界共通の原油価格というものがあるが、原油を加工した商品(例えばプラスティック製品)の価格は世界でバラバラであり、かつ原料である原油価格の何倍もの値段に変化している。価格が変化したのは、技術や労力などを原料に投入し付加価値を付けた結果であって当然とも思うが、そもそもの原料である石油が地球に存在していなかったら、この話は作られない。 日本は資源がない国である。だから、必死で資源を加工し、日本のお家芸である高い技術を駆使して付加価値を付け、自動車や電化製品などの製品を作り、それを市場で販売することで経済が大変潤い富を得た国である。一方、私達が石油を産出している国(特に中東)をイメージすると、最近の原油高騰も手伝い、莫大な富を得た国々の存在を確認できる。石油輸出国と日本の関係はイーブンに日本人は感じているだろう。日本は石油を輸入してもそれを付加価値に転化できる数少ない国であるが、大多数の国は石油を輸入すればするほどお金を(外貨)を消費していることを忘れてはならない。ここまでは、石油に焦点を当ててきたが、次は石油以外の資源を考えたい。 日本は石油以外にも様々な資源を輸入している。その中でも、パソコンやデジカメといった電子機器の電子基盤(緑色のやつ)に使われる、銅や希少金属といわれるものがある。これら金属の輸入先は世界中にあり、途上国といわれるところも含まれている。私が途上国でいつも驚くことが、日本製品の多さである。日本車を始め、テレビ、ビデオ、DVD、ラジオ、デジカメなど、日本メーカーが作った製品をとても良く見かける。日本メーカーのこれらの商品というのは、値段は多少高いが品質が良く長持ちするので、世界中の人々がこぞって購買している。 ここで、これが単に物々交換だったら問題はない。例えば日本で作られたDVDと途上国から産出されてそのDVDに使われた電子機器基盤の原料である金属とを交換した場合などだ。しかし実際は、そんなこといくはずがない。ある国が原料を日本に輸出して、その原料が加工されて製品になり、輸入される時には、原料代の何十倍・何百倍という価格差が発生して返ってくるのだ。 このように、日本はこれまで石油や金属といった資源を加工し、それら加工品を輸出して利潤を得ていくことが、自分達の未来への活路であった。品質の良い商品を作り、それらを欲しがる世界中の人々に販売することは、市場社会の当然のシステムであると、日本人は思っている。しかし、特に資源の輸出が国の根幹をなすような途上国では、「富を生み出す商品=資源」は取られ、減る一方で、資源の売買で手に入れたわずかなお金もまた、その資源が加工された製品の購入で取られてしまうという、別の見方での現実も存在するのである。 現在、先進諸国はアフリカの地下資源(富を生み出す商品)に目を付け、専属的にそれらを開発できる採掘権をめぐって策略を尽くしている。この策略とは、外交(援助など)や民間企業の努力などが絡み合い行われる。ある国では、武器供与という外交カードも使っている。今後も一段と、アフリカの地下に埋蔵されている資源をめぐり、先進諸国の争奪戦が繰り広げられるようだ。 日本は理由はともあれ、途上国に対する援助でかなりの額のお金を使っている。そこで、是非、それらの国から資源を購入する時には、販売価格の10倍くらいで買ってみたらどうか。その金額の補填は、援助されるべきお金で相殺する。そうしたら、他の国へ売る資源の価格も便乗値上げされて、途上国に都合がいい。もしくは、資源は買いますが、貿易不均衡のため、日本製品は輸入しませんとするか。資源のある国は、もっと資源の価格を上げて販売できるような仕組みを作ったらいいと思う。そしたら、資源のまったくない日本なんか、高品質の製品は作れるけれど、その製品は馬鹿のように高くて誰も買えませんってなる。 ふっと気が付いたら、日本のことを悪く言っていた。これではまるで、日本が途上国を「搾取」しているようではないか。いけないいけない。私は日本からジンバブエにやってきたスパイ、あっ、いや協力隊員だった。 |
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| ■ 日本が発展した理由 | ||||||
ここでは、日本が発展した理由の根本的な要因は何か?について考えたい。まず、この解答はよく言われる日本人の特徴的性格だった「勤勉」と「真面目」の二言だけで言い表わせるほど、シンプルなものではないようだ。この質問は、どんな人に尋ねたら的確で面白い答えが返ってくるのだろうか?正直、私は発展時期の経験者ではないのと想像力不足で、あれこれと日本が発展した的確らしい答えが浮かんでこない。それにしてもその当時、欧米人は極東の小国日本の発展を「奇跡」と言っていたそうだが、本当に凄まじい勢いで日本は発展していったようだ。私は今の途上国の現状は知っているので、今の日本の状況と照し合わせると、日本はまさに「すごい」の一言だ。 私がジンバブエで生活してみて、日本の「滅私奉公」や「サービス残業」、「仕事によるウツ」、「カロウシ」など、これらの言葉はジンバブエ人に到底通用しないことを強く感じる。また、これらの言葉は日本が世界にも誇れる?ことのようなので、これらから日本の発展の理由を考えると、日本人は「忍耐強く」、「団結力」に優れているといえる。 その他、本などで読んで日本が発展したと思われる要因を自分で選んで書いてみる。 まず、日本は資源がほとんどなかったから、「工夫」することが絶対に必要ということを分かっていて、活路をみいだした。また、もともと手先が器用な人種であった。苦労しなければ、対価が得られないという日本人の考え方は「勤労」自体にも感謝してしまうほど、働く事が生活の大きな部分を占めた。 次に、徳川時代のように、300年近くも幕府が国を安定して統治・運営できた経験があったのは、単なる歴史の事実というよりも、今の日本の発展に寄与した要素でもあるようだ。幕府の安定した国家運営システムや農業、工業、商業がバランスよくコンビネーションされて、現在の元となるような日本人に適した独自のシステムを作り上げていった。一方、アフリカ諸国の植民地化(白人入植時)以前はどうだったであろうか。戦争に焦点を当ててみたら、小民族間の小競り合い程度で、国家というほどの規模の地域はなかったようだ。だから当然、国家の統治・運営システムなどそこにはなかった。また、中国に象徴されるように、アジア諸国のいくつかの国は植民地化される以前に日本同様、国家運営システムの経験を持っていた。最近のアジア諸国の発展ぶりをみると、この植民地化以前の国家という経験の有無が大きく関係していることが、アフリカのそれの経験の有無と比較しても分かる。 さっきも書いたが、途上国に来てみると日本の発展が本当にすごいことに感じる。これ程までの開きの差は、未来永劫埋まらないのではないかと強く思う。また、せっかく自分が今、途上国に来いるので、別の視点で日本の発展を見てみると、発展する過程において、捨て去ったことや忘れ去ったこともたくさんある事に気が付く。だから、意識的にせよ無意識的にせよ、発展する過程でいろいろなことを捨て去ったり忘れ去ったりできる能力が日本人にはあるともいえる。無我夢中とはこのことか? |
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| ■ 日本人とアフリカ人の外見 | ||||||
なんでこんなことを書こうと思いついたのだろう。失礼、単なる自分の好奇心のようだ。日本でアフリカの人なんてほとんど見かけないし、ましてや間近でジロジロ見られないしな。日本に住んでいる日本人は、ほとんど外国人との接触がない。だから、外国人(特に白人・黒人)が間近に迫ってくるだけで、引け腰になって身構えてしまう。ある人種の中身はまったくその人それぞれだけれど、ある人種の外見的な特徴に慣れ親しんでおいたら心の広い人間になれそうだ。たぶん。 と言っても、たくさんの数の特徴を列挙できるほど私の目と感性は鋭くないようだ。ましてやアフリカの人といっても様々な外見的特長を持った人種が共存しているし。だから、ここではジンバブエのいわゆる黒人の外見的特徴を自分のステレオタイプな見方で書こうと思う。あと、それらの特徴は日本人の外見を比較している。 まず、黒人と一言で言っても様々な肌の色のバリエーションがある。ジンバブエ人でいったら大多数が「こげ茶色」というのが一番近いかも。一般的な人種の大別として、黒色人種、白色人種、黄色人種があるけれど、色のバリエーション、つまり色彩で言ったら、黒色というよりもこげ茶色。白色というよりもピンク色。黄色というよりも肌色ではないか。あれっ!肌色ってどんな色だ?...............思考停止。いやいや私達が使う肌色とは、色彩で言ったら茶色とピンクの間くらいかな。まーしかし、肌の色に関係なく、特に黒と白という単語には形容詞的ないくつかの良いものと悪いもののイメージを私達は持っている。例えば、黒は邪悪とか暗黒、容疑者、ブラックマーケット(闇市場)など。一方、白は清純とか潔白などがある。 話がだいぶそれたが、私はジンバブエ人達と一緒に生活をしていて、彼らとの肌の色とのギャップから、たまに自分の肌の色をなんて自分で言ったらいいのかと思う。「肌色だよ。」(また言ってしまった。)逆に自分の肌の色をわざわざ、「黄色」だという人もいないだろう。ジンバブエ人の場合も自分の肌の色を「黒色」と答える人はいない。ダークブラウンとかブラウンなどの色彩で答える。だけれど、自分達のことを「Black People(黒人)」と言っている時があるが、それは肌の色というよりも、アフリカ生まれ(African)または、アフリカ人としての誇りを持っていることを意味している。肌の色についてあれこれ考えようとすると、すぐそれはタブーだと自分の思考に蓋をしてしまっていたが、「肌の色は色彩で表現する以外になんの意味も持たない。」と自分で思っていたら何も怖いものはない。もっとも、これは敏感な話題であると認識しておくにこしたことはないと思う。 あとは、足が長い。そして、特に体形が細い人は足(特に太もも)がカモシカのように細い。手の平、足の平は色が体のほかの部分よりも薄い。また、後頭部がアジアの人の頭の形より突き出ている気がする。よくジンバブエ人に私の頭が絶壁だと言われる(日本では言われたことないのに)。鼻は日本人の様々な高さの種類と同じのようだ。目の彫りは少し深い。 私が一番驚いたことは、髪の毛が自然な状態でまさにパンチパーマなことだ。彼らが3ヶ月も髪の毛を切らずにに伸ばしたら、ふかふかのクッションみたいになる。髪質もかなり硬い。女性は薬品を使って、髪の毛を一度伸ばしてから、編みこみやエクステンション(付け毛)をして、おしゃれを楽しんでいる。男性は坊主頭が9割以上だ。私もこっちで坊主頭にしたら、同僚講師や学生達は大喜びだった。 私のつまらない観察に付き合ってくれて、ありがとう。でも、同じ人間なのに表面的な体の特徴はたくさんあるようである。興味深い。DNA(遺伝子情報)などに詳しい人は、99.99%以上はすべての人間が同じだと意見するだろうが。実はこの外見の話、当のジンバブエ人達も関心が高いことのようだ。私が学校の中や街中を歩くと、ものすごい視線を感じる。新入学生達に私が講義を始めた時は、私の体を舐めるように見られた。でも、そういった観察とか目の慣れが、お互いの距離を縮めるのであれば、それは単なる仲良くなるための一プロセスだと思えるようになった。 |
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| ■ 日本人が集まりゃ、小日本が発生 | ||||||
2008年2月現在、ジンバブエにいるすべての日本人の数は100人以下だそうだ。おおまな分類として、協力隊員とJICA関係者(+その家族)、日本大使館員(+その家族)、在住の民間人、商社員、旅行者(数名)だそうだ。一国の中に日本人が100人を切っている国は世界を探してもかなり少ないのではないかと思う。 ここで言いたいことは、たとえ日本から遠く離れたジンバブエでも、日本人が集まれば日本社会の縮図が出来上がるということだ。異国の地だけに、かなり面白い。 まずは、中華料理屋で。中華料理は個々盛ではなく大皿でテーブルに並ばれてくるのは、ジンバブエの中華料理屋さんも同じだ。みんなで1つの皿の料理ををつつき、どんどんお皿の上の料理がなくなっていくのだが、必ず最後の一口、最後の一つが残る・・・・・・なぜだろう?そして、これはどういった心理が引起こしているのだろう?最後の一口(一つ)をたとえ食べたからって、みんなから指差されて、「ずうずうしいやつだ!」なんて言われないのは分かっているのに、自分自身で「もし食べたらなんか嫌だなー」と思い込んでいるようだ。 もしもすべても皿に一口(一つ)づつ料理が残った状態で、皆が席を立ち会計が終わったら、テーブルを片付けに来た係りの人は「なんだこれは?(私の分か?)」と思うだろう。話が変わり、以前、私が京都のお寺を訪れた時、だいぶ昔に建てられたお寺の建立のことについて和尚さんから話を聞いた。なんでもお寺の建立が完成したら、わざと最後に一枚だけ屋根瓦を外すそうだ。お寺の建物が100%完成してしてしまったら、その後その建物は朽ちていくのみであるから、それを嫌い一枚だけ瓦を外し完全な形で完成させない?そうだ。私はその時、あーそういったことが日本人的な考え方なんだなと感心して思った。中華料理屋さんでの、最後の一口(1つ)もこの話とつながるような気がする。ただの「遠慮」だよ、という意見もあるが。 もう一つは、日本人という「輪」「和」(集団)ができること。その中にいるのはちょっと息苦しい時もあるが、いろいろな情報交換がでできて便利だし、異国の地だけにいろいろな意味の安心感もそこにはある。日本人はよく群れたがるといわれているが、そうやって和を作り、和を守ることで秩序が守られるといった、江戸時代くらいからの教訓が気持ちの奥底に根付いているようだ。 あと、次のことは私に言わせると、意識的に行う条件反射というよりも、体が勝手に動く無条件反射に近いものがある。それは日本人同士で使われるボディーランゲージ、つまり体のある動きで意思表示をするものだ。ある動きとは、日本人の間ではだいたいの共通認識がある。例えば、挨拶は頭を軽くペコリと下げるとか、年下よりも年上の人のほうが、頭の下げ方が大きいとか、様々な体の動きで(ほぼ無意識に)相手に対して、感謝や尊敬、気を使わせないようにしたりなどの感情表現を表している。こういったことがおざなりだと、礼儀がないと言われてしまうかもしれない。つまり、体の意思表現なしに、言葉だけでコミュニケーションしたら、場合によっては相手に不快感を与えてしまうようだ。 最後に、海外に行くといつも不思議に思うことの一つに、日本人らしき人は瞬時に目に飛び込んでくるということだ。日本人に似ているのは、韓国人や中国人であり、服装や顔つきである程度識別できるのだが、それ以上に断定的なものは、日本人特有の動作(感情表現?)、または雰囲気だと思う。極稀に、日本人でも動作や雰囲気に「日本人らしさ」が感じられない人もいるが。 |
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| ■ 日本人の性格(国民性) | ||||||
日本人の性格(国民性)と言われて何を思い立つか?一般的によく言われるのは、「真面目」「勤勉」だが果たして。これは日本に住んだことのある外国人に質問してみるのが一番いい。そして、彼らが言うには、「規律がある(お酒の席以外・・・)」とか「真面目」、「一度仲良くなるとフレンドリー」、「他人を気にしすぎる」などを挙げてくれる。いいとこついてる。 また、私のあるジンバブエ人友達は、JICAの研修員プログラムで4ヶ月間ほど日本に滞在したことがあり、日本で学んだという日本人の一番特徴的な性格を私に話してくれた。それは、「ガマン」だそうだ。彼が出会ったり見かけた日本人は、相当何かに我慢していたのであろうか?何にガマンしていたのか?もっと彼に突っ込んで質問すればよかったが、していない。彼いわく、ジンバブエ人は目先のことや自分の欲望に対して、ガマンがないそうだ。確かに、社会とか文明が高度になることは学校や仕事などに縛られ、それらからくるストレスを我慢しないとならない。 あともう一つ、私の思っている日本人の特長的性格がある。それは、「完璧」だ。それに対し、反対語としてあるのはおそらく「怠惰」であろう。外国人が製作した映画ラストサムライで主人公が死ぬ時に「PERFECT(完璧)」と言うが、製作者の日本人に対する視点が伝わってくる。ここでの完璧とは妥協を認めない、もしくは嫌う心持ちのように思う。日本人は地震や台風、火山の噴火などといった非常に厳しい自然条件の元に暮らしてきた。だから、誰もが自然を制したとか人間は自然に勝るといった考え方がない。最近まで日本人は自然を尊敬さえしていた。人間は自然の一部で、自然こそ完璧だとする考え方が日本人の「完璧」の元ではないか。どんな宗教でも神様は完璧だと考えるようだが、日本において自然が神様としていた時代もあったはずだ。しかも、実在のもの(自然)が神様であったら、信じるほうも妥協できないように思う。反対語を「怠惰」といってみたが、例えばバカンスのように「気」を抜くことに対して日本人は嫌う節がある。気といったが、簡単にいうと完璧とは気合を常に入れている状態のようだ。また、そういう状態がよしとする考え方。 |
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| ■ 日本は海外移住者が増えるの? | ||||||
現在、ジンバブエは経済の崩壊により国が衰退の一途をたどっているが、近い将来、政治と経済が安定して回復・上昇に向かうだろう(向かって欲しい)。その時になって、回復のかなり重要な要素として、(優秀な)人的資源がある。しかし、この国にはそういった人材がすでに国外流出してしまったために、回復の見通しはあまり明るくないのが現実のようだ。頭脳流出はジンバブエに限ったことではない。途上国といわれるところすべてに、この問題があるといっても過言ではない。 では、日本はこの先どうなるのであろうか?可能性として、日本の国際競争力が激落していったら、人々はもっといい給料や生活環境を求めて、先進国への移住を考えるのだろうか。逆に途上国からの受け入れ先に日本はなるのだろうか? アフリカは、ほとんどの国が旧宗主国の影響で英語かフランス語が公用語になっている。だから、渡航した先の先進国で言葉による問題というのが少ないのも頭脳流出をしやすくしている。私も正直、英語やフランス語が堪能だったら(技術ももちろん何か必要だが)、自分の人生の選択肢がかなり広がるだろうなと、イギリスに現在住んでいて、一時帰国したジンバブエ人と話をしていて思った。 途上国で海外移住をする人達の一番の理由は、より良い給料と良い生活環境(子供の教育なども含め)を求めるためである。それは、先進国と途上国の経済格差がかなり大きいからだ。先進国に行けば、給料が一気に10倍になったりするので、行かない手はない。日本はもっと外国人労働者を受入れたらいいと思う。治安がどうのこうのいう人がいるのは分かるが、もしもその外国人たちが本国へ送金をしていたら、これはある意味の援助ともいえる。 私はジンバブエ以外でも海外に住んでいる日本人の方を何人か知っているが、彼らの海外居住の理由は結構シンプルなのに私はいつも感心する。その理由は、日本よりもここ(海外の移住先)の方が、住みやすいく良いからだって。潔い。 |
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| ■ アパルトヘイトと援助 | ||||||
「アパルトヘイト」とは、人種差別政策のことで、南アフリカ共和国で白人が黒人を差別(弾圧)していたと、昔学校で習っていた。それ以上のことはまったく知らなかったが、最近、本を読んでいたらそのアパルトヘイトの大義名分が載っていた。それは、それぞれの人種独自の文化を尊重し保護するというものだった。そのため、それぞれの人種が交じり合う社会は良くないとするものだった。私はアパルトヘイトの大義名分のことを読んで、なるほど、人間って何かやましいことをやろうと思ったら、もっともらしい大義名分があれば比較的何でもできてしまうんだな、と思った。 さて、「援助」。援助は国と国との協調や道義として行っていることもあるが、中には供与国にある自然資源欲しさなど、国益のために行う外交手段としての援助もある。それで、国益のために援助をするのか?なんてちょっと聞くと、アパルトヘイトと掛けて、人間って何かやましいことをやろうと思ったら、・・・・・・って上と同じように言いたくなってくる。もちろん、すべて本気でそう思っているのではないが。 私は日本の協力隊訓練所で、アパルトヘイトがテーマのCRY FREEDOMという映画を観た。簡単に内容説明すると、主人公はアパルトヘイトに対して疑問を抱く新聞記者の白人であり、その彼と黒人の運動家(スティーブ・ビコ)との友情物語である。アパルトヘイトの状況下、その白人記者は黒人達のおかれている状況に同情し心情を理解しようとするが、どうしても彼らのあることを理解できないでいた。それをスティーブ・ビコがうまく教える。スティーブ・ビコによると、アパルトヘイトによる一番の問題というのは、白人からの弾圧などといった表面的なことではなく、「黒人が白人に抱いてしまう劣等感」だそうだ。黒人は生まれながらにして、裕福で逆らうことのできない白人達を見て育つと、自分達は何かが劣っていると感じるのだ。と言っている。そこら辺のやり取りは映画を観ると、よく伝わってくる。「劣等感」、この映画は私にとって非常に勉強になった。 確かに、生まれながらにして自分に劣等感を感じるのは、同じ人間としてかわいそうである。生まれながらではないが、日本人はアジア諸国の人に対しては優越感があって、欧米人には劣等感があるのはなぜだろうか? それでは、援助に話を戻す。考えすぎかもしれないが、先進国という所が途上国に援助をした時に、援助のいかんによっては、彼らに「劣等感」を売りつけていると取れないだろうか? |
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